新米先生と差別
小学校3年生になって直ぐ辺りに、保健室の先生に小学校の玄関付近で呼び止められ、私の目をじーっと見て「KUMA子さんの目は、とっても綺麗な目をしていますね」と言われた事が有りました。
私は心の中で、そうかな?と思って、これと言った気の利いた返事もせずに、どうして保健室の先生が私にそんな事を言ったのかな~と考えていました。
保健室の先生はキリスト教徒で、村で布教活動をしていました。
土曜学校とかもあって、私は参加していませんでしたが、クリスマスには保健室の先生の自宅に招かれ、アルミホイルに包まれたロウソクに火を灯し歌を歌った事が有ります。
現実逃避出来たというか、幻想的な気分でした。
私は新米先生に平手打ちビンタを食らってから授業をサボるようになり、度々保健室に駆け込んで時間を潰していたのですが、その内、保健室の先生が私を匿っているとか学校側から言われた様で、保健室の先生に、もう保健室に来てはダメだと言われてしまいました。
それからは授業中にトイレに行ったっきり教室には戻らないという事を繰り返しました。
新米先生は、私を無視し放置しました。
でも、無視出来なくなる理由が出来てしまいました。
他の女子が、私の真似をしてトイレでサボるようになってしまったんです。
一人、二人とトイレでサボる女子が増え、結局6人くらいになってから、それを問題視し出しました。
新米先生は「KUMA子さんが他の女子を誘って巻き込んでいる」と言い出したので、それは全く違う事で、私からすると迷惑な話でした。
他の女子が自分の意志で真似をしたのであって、私は「一緒にサボろう」等とは誰にも言った事は有りませんでした。
私がサボるのは、私と新米先生との問題であって、他の女子には関係の無い事でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その内、男子も女子も先生に反抗的な態度を取るようになりました。
先生とは呼ばず、センコーと呼ぶようになり、教室の扉の上には黒板消しが設置され、授業が始まっても誰も椅子には腰掛けず、教室の机に座って騒いでいました。
私は何も仕切ったりしていませんでした。
それは、自発的に起きた現象でしたが、私がクラスの和を乱したという事になり、先生は、全て私が仕切っているのだと信じていた様で、何かを取り決める際には「KUMA子さんを中心に、KUMA子さんをリーダーに考えて下さい」という事を頻繁に口にし出しました。
私は、そういうのは嫌だと言いましたが、先生は聞く耳を持ってはくれませんでした。
男子には「番長」と言われ始め、それが嫌でした。
廊下を歩いていると女子が私を真ん中にして両脇を歩くので「真ん中は嫌だから端を歩きたい」と言ったのに「KUMA子ちゃんが真ん中の方が似合うから」と言われ真ん中を歩かされました。
そういう事がもう嫌になってしまい、私は学校に行くのをやめ、登校拒否が始まりました。
先生は度々家庭訪問に来ました。
私の母に「KUMA子さんを学校に来させてください」と。
母は「先生が何でもかんでもうちの娘にリーダーをやらせるからじゃないんですか、他の子供達にも平等に出来ないんですか」と問い掛けたそうです。
そしたら先生は母に「クラスの子達は、私の言うことは全くきかないのにKUMA子さんの言うことは何でも聞くんです」
「KUMA子さんが死ねと言えば、あなた達死ぬんですか!と聞いたら、男子も女子も、死にまーす!と答えたんです」と先生は真顔で母に言ったそうです。
私はそれは知りませんでした。
私が居ない時に、そういう事があった様です。
母は呆れていました。
「これじゃダメだね」と笑っていました。
学級崩壊は止まらず、教頭先生が付き添いで授業を進める事になり、多分その頃には私は再び学校に行きはじめていました。
教頭先生が居るという事で安心感が有りました。
4年生の文化祭での劇の配役を決める日は、主役にされやしないかと不安で学校を休みました。
翌日学校に行ったら、私は劇の道具を作る工作係になっていたのでホッとしました。
そんな感じで、私の小学校3.4年生は、とんでもなくおかしな2年間でした。
4年生最後の通信簿には「責任感がない」と書かれていました。
笑っちゃいました。
「差別はいけない事だ」と意気揚々と言っていた先生自身が、私を差別していたんだと思います。
家庭環境の悪い子供は学校で問題行動を起こすと言われますが、私は両親が離婚し、母はスナックを経営していたけれど、あの平手打ちビンタを食らう迄は、自分の意見を主張したり問題行動を起こす様な子供では有りませんでした。
何かがあの日、弾けてしまったんだと思います。
世間ではここ数年、異常な程「差別反対!」と叫ぶ声が聞こえます。
そういうのを見聞きする度に、ふと子供の頃のこの時の新米先生の記憶が甦ってしまいます。
本当の差別って何かな。
差別反対と叫んでいる人達は、誰も差別はしていない?
本当の愛情って、何だろうねと。
難しいですけれどね。
取り敢えず【ヒステリックな暴力はダメ】と言うことで締めます。
私は心の中で、そうかな?と思って、これと言った気の利いた返事もせずに、どうして保健室の先生が私にそんな事を言ったのかな~と考えていました。
保健室の先生はキリスト教徒で、村で布教活動をしていました。
土曜学校とかもあって、私は参加していませんでしたが、クリスマスには保健室の先生の自宅に招かれ、アルミホイルに包まれたロウソクに火を灯し歌を歌った事が有ります。
現実逃避出来たというか、幻想的な気分でした。
私は新米先生に平手打ちビンタを食らってから授業をサボるようになり、度々保健室に駆け込んで時間を潰していたのですが、その内、保健室の先生が私を匿っているとか学校側から言われた様で、保健室の先生に、もう保健室に来てはダメだと言われてしまいました。
それからは授業中にトイレに行ったっきり教室には戻らないという事を繰り返しました。
新米先生は、私を無視し放置しました。
でも、無視出来なくなる理由が出来てしまいました。
他の女子が、私の真似をしてトイレでサボるようになってしまったんです。
一人、二人とトイレでサボる女子が増え、結局6人くらいになってから、それを問題視し出しました。
新米先生は「KUMA子さんが他の女子を誘って巻き込んでいる」と言い出したので、それは全く違う事で、私からすると迷惑な話でした。
他の女子が自分の意志で真似をしたのであって、私は「一緒にサボろう」等とは誰にも言った事は有りませんでした。
私がサボるのは、私と新米先生との問題であって、他の女子には関係の無い事でした。
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その内、男子も女子も先生に反抗的な態度を取るようになりました。
先生とは呼ばず、センコーと呼ぶようになり、教室の扉の上には黒板消しが設置され、授業が始まっても誰も椅子には腰掛けず、教室の机に座って騒いでいました。
私は何も仕切ったりしていませんでした。
それは、自発的に起きた現象でしたが、私がクラスの和を乱したという事になり、先生は、全て私が仕切っているのだと信じていた様で、何かを取り決める際には「KUMA子さんを中心に、KUMA子さんをリーダーに考えて下さい」という事を頻繁に口にし出しました。
私は、そういうのは嫌だと言いましたが、先生は聞く耳を持ってはくれませんでした。
男子には「番長」と言われ始め、それが嫌でした。
廊下を歩いていると女子が私を真ん中にして両脇を歩くので「真ん中は嫌だから端を歩きたい」と言ったのに「KUMA子ちゃんが真ん中の方が似合うから」と言われ真ん中を歩かされました。
そういう事がもう嫌になってしまい、私は学校に行くのをやめ、登校拒否が始まりました。
先生は度々家庭訪問に来ました。
私の母に「KUMA子さんを学校に来させてください」と。
母は「先生が何でもかんでもうちの娘にリーダーをやらせるからじゃないんですか、他の子供達にも平等に出来ないんですか」と問い掛けたそうです。
そしたら先生は母に「クラスの子達は、私の言うことは全くきかないのにKUMA子さんの言うことは何でも聞くんです」
「KUMA子さんが死ねと言えば、あなた達死ぬんですか!と聞いたら、男子も女子も、死にまーす!と答えたんです」と先生は真顔で母に言ったそうです。
私はそれは知りませんでした。
私が居ない時に、そういう事があった様です。
母は呆れていました。
「これじゃダメだね」と笑っていました。
学級崩壊は止まらず、教頭先生が付き添いで授業を進める事になり、多分その頃には私は再び学校に行きはじめていました。
教頭先生が居るという事で安心感が有りました。
4年生の文化祭での劇の配役を決める日は、主役にされやしないかと不安で学校を休みました。
翌日学校に行ったら、私は劇の道具を作る工作係になっていたのでホッとしました。
そんな感じで、私の小学校3.4年生は、とんでもなくおかしな2年間でした。
4年生最後の通信簿には「責任感がない」と書かれていました。
笑っちゃいました。
「差別はいけない事だ」と意気揚々と言っていた先生自身が、私を差別していたんだと思います。
家庭環境の悪い子供は学校で問題行動を起こすと言われますが、私は両親が離婚し、母はスナックを経営していたけれど、あの平手打ちビンタを食らう迄は、自分の意見を主張したり問題行動を起こす様な子供では有りませんでした。
何かがあの日、弾けてしまったんだと思います。
世間ではここ数年、異常な程「差別反対!」と叫ぶ声が聞こえます。
そういうのを見聞きする度に、ふと子供の頃のこの時の新米先生の記憶が甦ってしまいます。
本当の差別って何かな。
差別反対と叫んでいる人達は、誰も差別はしていない?
本当の愛情って、何だろうねと。
難しいですけれどね。
取り敢えず【ヒステリックな暴力はダメ】と言うことで締めます。